フォト&エッセイコンテストPHOTO & ESSAY

結果発表

第5回「福祉・介護」フォト&エッセイコンテスト 作品募集

聖隷クリストファー大学では、福祉・介護に関わる方々を応援するためにコンテストを実施しました。(詳細はこちら
ご応募いただきました皆様、誠にありがとうございました。以下受賞作品をご紹介いたしますので、ぜひご覧ください。(※敬称略)
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フォト部門
最優秀賞

『大きくなったね~』(小粥 亜矢子さん)

最優秀賞

優秀賞(一般部門)

『みんなでお手伝い』(山下 茂さん)

優秀賞

『100歳の大ばぁばと真剣勝負』(平野 京子さん)

優秀賞

優秀賞(高校生部門)

『いつまでもかっこよくいて』(静岡県立浜松南高等学校 1年 村上 光樹さん)

高校生部門

『おばあちゃん、おんぶしてあげる』(静岡県立浜松南高等学校 1年 小野田 みなみさん)

高校生部門

特別賞
その他、ご応募いただいた作品
エッセイ部門
最優秀賞

『私のおばあちゃん』(静岡県立清流館高等学校 1年 片岡 美弥さん)

 私の叔母さんは、ダウン症候群と呼ばれる 知的障害を抱えています。かなり重度で、自分で立つことや、喋ることができません。介護していたのが私のおばあちゃんだけだったという事もあり、一人で介護するのは大変だということで、介護施設に入っています。私も、小さい頃はおばあちゃんと一緒に施設に行って、手伝いをしていました。手伝いをしたといっても、タオルを渡したり、棚から物を足したりしていただけで、ほとんど見ているだけでした。小さい私は、何故こんな所に居るのだろうと不思議でした。「障害」という言葉の意味を理解できていなかったのです。おばあちゃんはいつも施設に行ったとき、最近身の回りで起こったことを、楽しそうに話していました。でも、叔母さんは返事どころか、反応すらしませんでした。それは仕方のない事なのだと今ならわかります。しかし、小さい私には、叔母さんはおばあちゃんの事が嫌いなのか、だから返事もしないのか、と思えてしまったのです。それでもおばあちゃんは話しかけることをやめませんでした。小さい私には、不思議でなりませんでした。
 ある日、おばあちゃんと一緒に買い物に行ったとき、おばあちゃんが叔母さんの服を見に行こうと言い出したので、服を見に行くことになりました。大きい服を見るのかなと思っていたら、見に行った服は小学生着るような小さい服ばかり。ここでも私は不思議に思いました。何故こんなに小さい服ばかり見ているのかどうしてもわからず、思わずおばあちゃんに、「こんなに小さい服でいいの?もっと大きい服の方が叔母さんに合うんじゃない?」と、聞きました。すると、おばあちゃんは、「叔母さんはね、病気で体があまり大きくならないんだよ。だから、大きい服だとぶかぶかになっちゃうんだよ。」と、小さい私に優しく教えてくれました。

『私のおばあちゃん』続きを見る
  •  施設に新しく買った服を持っていき、またおばあちゃんは楽しそうに話すのです。それでも叔母さんは反応しません。施設から出て、小さい私は幼いながらに、人の気持ちを考えてないように見えた叔母さんにいい加減腹が立ち、どうして返事どころか、反応すらしないのかと、おばあちゃんに問いただしました。私が怒っている理由が何なのかわかると、おばあちゃんは優しく、 「叔母さんの仕草をよく見てみるといいよ。」と、言いました。
     叔母さんの好物だというゼリーを持って、また施設に行きました。今度は、叔母さんの仕草を注意深く見るようにしていました。服を着替えさせるとき、ご飯を食べさせるとき、オムツを変えるとき、歯磨きをするとき、叔母さんを見ていました。じっと仕草を見ていたら、小さな発見をしました。おばあちゃんの話を聞いているときや、ゼリーを目の当たりにしたとき、決まって前後に体を少し揺らしていたのです。オムツを変えるときや、歯磨きをするときには、両眼を強く瞑っていたのです。おばあちゃんに、この仕草の事を聞いてみたところ、嬉しいときには体を前後に揺らし、嫌なことがあるときには両目を強く瞑ることがわかりました。
     私は、この時自分が情けなく思えました。よく見ればわかる事なんて、こんなにたくさんあることがわかり、腹を立てた自分が恥ずかしく思えました。
     反応したくても反応できない、返事をしたくても返事が出来ない、何かしたくても、それを行動に移すことができない、など、『やりたくても出来ない』という中で、叔母さんはおばあちゃんに、自分の気持ちを仕草で教えていることがわかり、とてもすごいと思いました。そして、その仕草の意味に気付くことができるおばあちゃんも、凄いと思いました。家族を思うからこそ気付くことができたのだろうなと思います。
     私は、今、介護福祉士を目指しています。その上で、おばあちゃんの行動を見ていると、お手本になる事ばかりです。自分では気づけないこと、教えてもらえないとわからないこと、まだまだ分からないことは山のようにあります。今はまだ、『介護福祉士』のかの字すらいってないと思いますが、これからももっとたくさんの事を学んで、おばあちゃんのように、お手本になれるように頑張りたいと思います。
優秀賞(一般部門)

『黒子の介護が生まれた部屋』(山下 茂さん)

 昨年、十年の介護を終えた。新婚直後、妻の父が倒れて同居を決意したのは三十二歳のときだった。二年後には子どもが生まれ、介護と育児の同時進行が始まった。今でこそ男性の介護者は増えたが、私自身は妻の父に対しておむつ交換、入浴介助をすることにはじめは戸惑いがあった。全国大会にも出るほどのラガーマンだった義父。倒れる前の姿を知っているだけに、同居が始まってからどのように接していけばよいのか戸惑う日々だった。妻も仕事をしているため、お互いに介護と育児と仕事をバランスよく分担する日々が過ぎていった。
慌ただしい生活の中で、気の安らぐ時間となったのは息子たちの姿。介護期間の十年で三人の息子が生まれ、賑やかになった我が家。一歳にならない頃の長男は親の姿を真似て、自然と車いすを押そうとする。四歳になる頃には、食事介助も積極的に手伝ってくれた。一歳の三男はお兄ちゃんから車いすの押し方を教えてもらっている。時代は巡っていることを改めて感じた。負担が大きいものとして介護は一括りにされてしまいがちだが、子どもたちはおじいちゃんの介護をしているという感覚ではなく、車椅子に乗ったおじいちゃんをそのままで感じとり、必要なときに手を貸してあげている。子どもたちの行動から、私たち夫婦の介護負担が大きく軽減された期間だった。

『黒子の介護が生まれた部屋』続きを見る
  •  息子たちの姿を見て「黒子の介護」で接するということを学んだ。前に出すぎることなく必要なタイミングで必要な量だけ手を添えている。介護はそんなに気負わなくてもよいのではないだろうか。そのことを感じてからは義父の介護も抵抗が無くなった。大事なことを気付かせてくれた介護と育児の同時進行だった。
     義父が亡くなって一年。家の前を大きなハイエースが通ると、三男が「じぃじの車、来たでぇ」と声をかけてくることがある。通夜で「じぃじ、今日は起きてくるかなぁ」と言っていた次男も、今は「じぃじ、お空から見てるでぇ」という言葉に変わった。亡くなった直後の辛かった時間も少しずつ日々の毎日が埋めてくれる。ベッドがあった部屋に毎朝手を合わせる三児。「行ってきます」「ただいま~」昔と変わらない元気な声と光景が今も続いている。
    介護を語るときに「子どもの世話にならないようにしたい」という言葉をよく聞くが、私は愛する妻を育てあげた義父と一緒に過ごせた時間が幸せだった。そして「子どもの世話になっても気兼ねしない」日本であってほしいとも願う。三世代で支え合いながら、一瞬一瞬を大切に過ごした時間を終えて、心から感じている部分である。家族の時間が取りづらい現代で、ごく当たり前ではあるが「大切な家族を大事にすること」を義父の介護から学んだ気がする。ありがとうの言葉が天国に届きますように。

『私の友達』(静岡県立清流館高等学校 1年 磯和 弥優さん)

 私が小学生の頃、私の学校には、障害を持ったある男の子がいました。彼はいつも車いすに乗っていて、学校に来る日もあまり多くはありませんでした。私たちは彼のことを、よく知りませんでした。
 ある日、彼と触れ合うための会が行われました。それは、遊ぶのが大好きな彼が友達と触れ合うことで何かに気付けるかもしれないことや、彼のことをよく知ってほしいという親御さんの優しさから行われた会でした。私たちはまだ低学年で、車いすに乗っている彼、話しかけても応じてくれない彼を、よく理解できませんでした。ですが、風船遊びをしていた時、彼は笑っていました。「あー、あー」と声を出していました。楽しそうに体を動かしていました。自分らしく感情を表現している彼を見て、楽しんでいることは、私にも理解できました。私たちは、時間を忘れて、彼と遊びました。
 会が終わった後、私は、大切にしていたうさぎのぬいぐるみを彼の膝に置きました。そして彼の手を握り、「ずっと友達。」と大きな声で言ったのを、今でも覚えています。その時、彼が「あー、あー」と言いながら笑ってくれたのも、忘れません。
 月日は流れ、私は中学二年生になりました。私の学校の近くには、特別支援学校がありました。私の学校では、そこの生徒さんたちと交友を深めるための会が年に一度、二年生の後期に行われます。その会で私は、彼と再会しました。当たり前ですが、彼は私と同じ位の背丈になっていて、顔が昔より大人っぽくなっていました。別に彼に「覚えてる?」と話しかけたわけでもなく、沢山の生徒さんと触れ合いました。ですが、私はすごく嬉しかったです。向こうのグループで楽しそうに「あー、あー」と言いながら笑っていたからです。なんの障害かもわからない、未だにどんな人かもよくわからない、そんな状況ですが、彼との出会いが、私が福祉に興味を持つ、一番のきっかけとなりました。

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  •  それから私は、自分がしたことで誰かが笑顔になってくれることに喜びを覚えるようになりました。例えば一つ挙げると、中学三年生の時のことです。雨の日に友達と別れてから一人で歩いていると、前に一人のおばあさんが歩いていました。雨は少しずつ強くなっているのに、おばあさんは、傘を差していませんでした。私はすぐに走っていき、おばあさんを傘に入れました。おばあさんは、「ごめんね」と言いながら私の肩を持ち、ゆっくり歩き出しました。私は、おばあさんの荷物を持ち、家まで送ってあげました。最後におばあさんが「ありがとうね」と笑顔で言ってくれて、私はとても幸せになりました。
     そして私は、福祉科のある高校を受験し、無事、合格しました。今は、福祉科の一員として介護実習に行き、授業で福祉に関る実技を勉強しています。
     私は、今この福祉科で専門的なことを学んでいるおかげで、少し自分に自信が持てるようになりました。好きなことを学べるので、勉強にも集中できます。中学三年生の時に想像していた高校生の自分よりも目標を高く持ち、とても楽しい高校生活を送ることができています。
     私がここまで成長できたきっかけは、私の友達、彼です。彼と出会えたことを一生忘れません。彼に、心から感謝します。これからも、この気持ちがいつか彼に届くよう、日々頑張っていきたいです。
優秀賞(高校生部門)

『別れを通して』(静岡県立清流館高等学校 2年 青木 愛実さん)

 16歳にして初めて知った感情がある。 大切な人の死は恐く辛く、そして悲しい。自分が死ぬよりも、恐いということ。 祖父母は、何年か前から認知症を患っている。それに祖父は、左目の視力を失い右目もほとんど見えないでいた。祖父母は、近くの介護施設にお世話になっている。祖父は昨年の夏、熱中症になったり風邪をひいたりと母は施設から何回か呼び出されていた。その頃から、体力も落ち食欲もなくなっていたと思う。今思うと、ほとんど見えない目でどうやって施設に通っていたのだろうか?私は何故、夏休みの間、もっと祖父母のそばについていてあげなかったのだろうか。 9月のある夜、電話のベルが鳴った。伯父からだった。祖父が階段から落ちたと。頭を打ったこと、肺炎ということでその日はそのまま入院になった。それからが大変だった。点滴を外そうとしたり、見えないのにやみくもに歩きまわったりして看護師や伯父、母を困らせたそうだ。あまりにも動き回ってしまうので、眠くなる薬を点滴にいれてくれたが、それでもベッドから降り歩きまわってしまい、伯父はその晩一睡もできなかったそうだ。 伯父と祖父母は三人で暮らしている。祖父母は、同じことを何度も言い、物を失くしたりたまにトイレが間に合わない。お互い感情が昂ぶり言い争い、手が出ることもあったが、二人ともとても優しい人だった。 伯父は二人が認知症になり始めた頃から,痩せてきた。先の見えない介護。昼間仕事をしていても常に二人のことが頭から離れないと言う。そのせいもあり医療ソーシャルワーカーと話し合い、祖父は違う病院に入院することになった。伯父も母も私達も、祖父が食事を摂り肺炎が治ったら家に帰れると信じていた。 入院したと母から聞いた夜、二人で祖父の元へ行くと胸を締め付けられる光景を目にした。 祖父がベットに拘束されていた。手にはミトンをはめて。 思わず涙が込み上げてきた。「じいじ来たよ。具合はどう?」 泣いていることを悟られたくなくて精一杯明るい声で問うけれど、気持ちがおかしくなりそうな程、辛くなった。人の尊厳とはなんなのだろう? 拘束バンドとミトンを外してもらえないかとお願いしても、点滴を自分で外して、ベッドから降りようとして治療に支障をきたしてしまうと言われた。祖父は、「なんでこんなことをするんだ?家に帰りたい。」と動かせない体と見えない目で訴えてくる。「肺炎だから熱が下がるまで入院しないと。我慢しようね。」それしか言えなかった。

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  •  それから1ケ月、私たちは祖父の元へ1日も欠かさず通い続けた。平日は、学校があるから夜、わずかな時間しか逢えなかったが土日はなるべく長く逢いに行った。行く度、祖父はもう光しか感じないのだと気づいた。耳だけで私達の声や物音を敏感に感じ取っていた。一日中暗闇の中にいた祖父を思い出すと、今も心が張り裂けそうだ。 熱は上がったり下がったりで足はむくんで血尿も出ていた。淡が切れず喀痰吸引も目にした。なんでそんなひどいことをするのだろうと直視できなかった。今は、授業で喀痰吸引の必要さも知ったけれど初めて見ると可哀そうで、痛そうでたまらなかった。 今、振り返ると看護師も介護士も忙しい時間の中、治療について疑問に思っていること要望など適切に応えてくれたし、励ましてもくれた。時間がくれば体位交換や清拭を行ってくれた。 毎夜、ミトンを外し、手を握り昔話をして祖父の好きな歌を唄った。そんなある日、いつもより少し早く家を出て病院に着くと酸素マスクをした祖父の姿があった。やっと息をしている。 「ご家族を呼んで下さい。」 それから一時間もしないうちに祖父は旅立った。握った手が冷たくなっていった。 心のどこかでは覚悟していた。けれどあまりにも早すぎて気持ちがついていけなかった。 看護師の方も介護士の方も祖父を清めてくれ最後まで手厚く接してくれた。多くの別れをみてきた彼女たちのはずだが、涙を流してくれた。 将来私は、看護・介護の道へ就くことを考えている。 福祉とは、しあわせやゆたかさの意味を持つと教わった。とても深い意味がある。 私は、祖父の死でたくさんの後悔がある。もっとたくさん話をすればよかった。もっといろんな所へ連れて行き、いろんな物を見せてあげればよかった。 看護師も介護士も患者や患者の家族の言葉に耳を傾け、少しでも悔いや思い残しがないようにしてくれたのだと思う。思いやりと優しさは、とても難しい。たくさんの経験をして、相手を思いやることを知るのかもしれない。祖父の死は今も私の心に深い哀しみと痛みを残している。 目の見えない父に寄り添って介護施設まで歩いてくれた介護士の方、私達家族と祖父に寄り添ってくれた看護師・介護士の方。伯父を心配する母も。 それはみんな思いやりなのだと思う。 みんな何かを背負って生きている。辛いことも悲しいことも。喜びも。 感謝の心を忘れず人に接すること。そういう生き方をしたい。 それが思いやりや優しさになると信じて。

『おばあちゃんとわたし』(静岡県立清流館高等学校 2年 萩原 妃翠さん)

 私は、祖父母と一緒に暮らしています。祖父は今でも働いていて、休日には畑仕事をしたり掃除をしたりととても元気です。祖母は、料理が得意でいつも美味しいご飯やお弁当を作ってくれていました。しかし、そんな祖母は4月に脳梗塞で倒れ、病院に運ばれました。すぐに手術をしたので命は助かりましたが右麻痺になってしまい、介護がなければ生活できない状態です。とても元気でなんでも自分でこなしてしまう祖母だったので私も含め家族や祖母の友人、本人でさえも信じることができませんでした。最初の頃は、笑顔が少なくなり祖母も元気がありませんでした。そんな中、母は1日も欠かさずに毎日、入院している祖母のもとへ行っていました。私は祖母が入院している病院にあまり行くことができずにいました。しかし、久しぶりに母と一緒に祖母に会いに行くことができました。祖母は私の顔を見て、手を強く握り泣いてくれました。そのとき、母から「こんなに喜んでくれるんだよ。」と言われました。私はそのとき、会いに行けていなかった申し訳ない気持ちと祖母が喜んでくれたという嬉しい気持ちになりました。

『おばあちゃんとわたし』続きを見る
  • きっと、これからもこの時の出来事を忘れることはないと思った日でした。だんだんと日が経つにつれ、祖母や家族から笑顔が戻るようになってきました。今は週に何回かデイサービスとショートステイを利用して、ショートステイに行かない日は家で介護をしながら生活をしています。祖母の介護は主に母が行っています。母は介護士をしていたこともあり、慣れてはいますが実際に見ていると家事や仕事もある中で行うのはとても大変そうです。祖母は声を出すことはできても言葉を話すことはできません。そのため、何かを訴えたくてもうまく伝えることができず辛そうな表情をします。理解することができない私もとても辛いです。でも、身振りや表情、指をさしているところ、単語を出して聞くなどなるべく理解して祖母に応えられるようにしています。私は今、学校で福祉の勉強をしています。なので、家でも祖母のことで自分にもできることがあれば手伝うようにしています。そこから、祖母が元気だった頃よりも接する時間が増えてきているように感じます。実際に自分の一番近くで福祉や介護が必要になることが起こり、大切さを改めて実感しました。また、福祉や介護とういうことに対する意識も少しずつ変わってきています。介護という形ではあるけれど、祖母と前よりも近い距離で接することができていることがとても嬉しいです。祖母が病院から退院して家で生活をようになってから、前はみんな忙しくて揃って食べることがなかった晩御飯も今では、みんな揃って食べるようになりました。家族みんなでいる時の祖母の表情は嬉しそうにみえて、私も嬉しい気持ちになります。最近は、祖母の反応や行動などから笑顔が生まれることが多いように感じます。最初は辛くて大変なことばかりだと思っていた日々でしたが、祖母の明るさによって大変なこともあるけれど、その中にも嬉しさや楽しさを感じる日々を送っています。祖母は私が話しかけると笑顔で楽しそうにしてくれます。これからも家族で協力して支えていきたいです。そして、そんな祖母の笑顔を守っていきたいと思いました。
特別賞

『気軽にお手伝い出来る文化を創る』(森山 ひかるさん)

『将来のわたしにできること』(青野 姫羅さん)

『介護を通じて思うこと』(石田 愛梨菜さん)

『祖父と福祉と将来と』(古井 遥香さん)

『優しい人』(前田 陽菜さん)

『家族の役割』(伊藤 祈さん)

『ユニバーサルデザインの大切さについて』(木村 美月さん)

『わたしが将来したいこと』(提坂 奈央さん)

『消えない思い』(青島 楓さん)

その他、ご応募いただいた作品

『おとこ唱』(増田 修三さん)

『サマータイムドレス』(増田 修三さん)

『行動力』(増田 修三さん)

『病気に負けない』(五十川 久夫さん)

『祖母の髪』(小仁井 茅春さん)

『かくれんぼ』(アリスさん)

『心も「可視化」する介護』(KYさん)

『未来の私へ渡すバトン』(桜庭 美樹さん)

『カレイってこんな美味いんだぁ』(山口 健志さん)

『将来に向けて出来ること』(今村 妃さん)

『福祉』(入井 海空さん)

『福祉科に入って(実習を通して学んだこと)』(河井 夏津さん)

『福祉』(久保野 詩月さん)

『経験したからこそ気づけた感謝の気持ち』(小関 杏奈さん)

『介護への思い』(柴崎 このみさん)

『福祉とは』(助川 愛果さん)

『コミュニケーションをとるとは』(鈴木 梨央さん)

『お年寄りの優しさ』(鈴木 瑠那さん)

『七日間で学んだこと』(曽根 穂奈美さん)

『僕が望む社会』(太向 晴輝さん)

『家族と福祉』(多治見 真琴さん)

『利用者さんからもらったたくさんの笑顔』(内木 美海さん)

『私が体験したこと』(成岡 澄華さん)

『初めて知ったこと』(原子 春海さん)

『ありがとうの言葉』(増井 桃佳さん)

『わたしにできること』(増田 はるなさん)

『福祉科に入って』(増田 優斗さん)

『苦労と笑顔』(松浦 海玲さん)

『福祉の仕事』(水野 佑香さん)

『温かさに触れる』(村松 歩奈さん)

『ありがとうの一言で』(村松 大輝さん)

『アスペルガー症候群である私』(亀山 智教さん)

『介護実習を通して』(杉浦 諒さん)

『言葉』(鈴木 若菜さん)

『今と将来』(阿南 聡里さん)

『今の福祉の現状』(鈴木 莉那さん)

『私が学んだこと』(海野 恋菜さん)

『実習』(阿井 啓太さん)

『将来の夢』(橋村 優月さん)

『人間と動物』(加藤 妃湖さん)

『成長したこと』(阿部 祐菜さん)

『病むことと健康』(小池 央記さん)

『福祉とは』(巻田 羽七さん)

『福祉について感じたこと』(海瀬 由華さん)

『福祉を学んで』(鈴木 龍佳さん)

『福祉的な公共整備について』(中山 理沙さん)

『変化と葛藤』(田村 悠香さん)

『祖父母の生きた証』(時田 日向さん)

『おばあちゃんのおにぎり』(時田 日向さん)

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